紅の雨 雨の日は世界が眠ったように静かになる。けぶるように降り注ぐ、春の雨。 紅の花が散らされて、色を失っていく様はこの世ならざる妖しの怪異に触れた、美しさの末路のようだった。 「何してんだよ、おまえ」 が足を止めたのは、鼻につく鉄錆びた、あまりにも嗅ぎ慣れたにおいが不快だったからだ。 番傘の柄をくるくると回しながら、一番濃く、紅の香りがする場所で立ち止まる。 人通りの多い大きな通りからたった二本、横道に逸れた曲がり角。袋小路のその奥に、立っていたのはまだ年端もゆかない子供だった。 あどけない表情で振り返り、の姿を認めて無垢に微笑む様に、声をかけたことを後悔して眉を顰めた。 およそ子供らしからぬ感情の篭った其れに、背筋が軽く粟立つ。 「お兄さんも、ボクが欲しいん?」 裾の短いすり切れた着物から伸びる手足は細く、薄暗い裏路地にあって青白くさえ見える。 髪の色は仄白く輝いていて、雨を弾いてかすかな光を纏っていた。しかし足元には既に事切れた、 見るからに無頼者の屍が折り重なるように転がっている。切り落とされた腕の数を、血の海に沈む頭の数で割れば、 死んでいる者の数は三、だった。視線を上に移せば、身体の左半分を紅に染めた子供が死人の中に立っている。 右手には血脂で汚れた刀が一振り。切っ先からは今も尚、ぽたり、ぽたりと血が滴り落ちている。 神社の祭で売られる狐の面のようにすらりとした面立ちの子供は、昏い場所からを見上げ、薄く笑った。 「ええよ。お兄さんやったら大事にしてくれそうやし」 彼の言葉には不愉快さを極める。桔梗色の二つの瞳をすっと細め、美しい造形の貌から一切の表情を消し去った。 「これ全部おまえが殺ったのか」 馬鹿言え、と一蹴した後に低い声で問えば目の前の子供は頷く。 「何で殺した。物盗りならもっと上手いやり方があるだろう」 「そやけどボクを持っていこうとするんやもの。ええ金になるとか言うて。 ボク、別に帰るとことかあらへんけど“ボク”を持ってかれたら困るやん」 「…妓楼かよ。くそっ性質悪ィ」 稚児趣味というのはいつの世にもいるもので、その為の妓楼も少ないながら存在する。 恐らく今は口も利けぬ肉塊と化してしまったこの三人の男達は、 そういった所へ子供を攫ってくるなりして売りつけて小金を稼いでいたのだろう。 見れば今目の前にいる子供も、綺麗に仕立て上げればそういった趣味の者達に好まれそうな容姿である。 しかしそれが本当なら厄介なことだ。 こういった無頼者の背後には、必ずある程度金と権力を持った元締めがいる。 そういった輩がどれほど自分達の利益に対して執念深いか、は知っている。 「おい」 厄介事はごめんだ。しかし見捨てるわけにもいかない。思えば血のにおいに惹かれてこの影に足を踏み入れてしまったときから、 この子供との縁は結ばれてしまっていたのかもしれない。ならば仕様がない。結んでしまったものを再びほどくのは容易いが、 態々そうするのは面倒だ。深く息をついて、きっぱりと言った。 「行くぞ」 に言われ、子供は初めて驚いたように顔を上げた。見開かれた双眸の色は紅。 きょとんとした顔で見上げてくる、その銀色の頭をくしゃりと撫でて。 「何だおまえ。ちゃんと子供らしい顔出来るじゃねーか。よし、まずは風呂だな。それから飯だ。 腹減ってんだろ。着物は俺のをほどいたらいいし、履物は買うしかないな。しょうがねぇか」 傘を回してくるりと反転し、は今からやることを指折り数えながらその場から歩き出す。 その背を呆然と見送りながら、子供はまだ動けない。自分の後についてくる気配が無いのに気づいたが振り返ると、 血溜まりの中に立ち尽くしたままの子供は泣きそうに顔を歪めている。 「何だよ」 「……」 「行く所ないんだろ。だったら俺の家に来ればいいじゃねーか。それとも嫌なのか?」 の声に首を激しく横に振る。それを見て、黒髪に桔梗色の眸を持った青年は口角をゆっくりと吊り上げて微笑む。 「………!」 はじかれたように血潮を踏み散らして子供はの腰にしがみついた。低い位置にある頭を粗雑だが優しさを込めて撫でて、 今度こそ泣き出した子供をあやす。 「そういやおまえ名前は?あるのか?」 渋皮色の着物が汚れるのも構わずに自分の方へ引き寄せて訊けば、泣き声にくぐもった声がした。 「……ギ、ンや。市丸、ギン」 「そっか。ギン、じゃあおまえ血以外の紅色を見たことがあるか?」 今教えられた名と同じ意を持つ色の髪をもう一度撫でながら問うと、しがみついたままギンは首を横に振る。 「知らないならちょうどいい。風呂入って飯食って、ちゃんとした着物着たら見に行くぞ。花見だ」 たった今、本人から教えられたばかりの名と同じ意を持つ色の髪をもう一度撫でると、泣き声が一層高くなった。 あれから数えるのが面倒なくらい季節は何度も繰り返し、あの頃小さな子供だったギンは今はよりも大きくなっていた。 廊下の端から自分を見つけて駆け寄ってくるギンを面倒くさそうに振り返ったは、その後ろにゆっくりとした足取りで続く 『五』の字を背負った男を見て一瞬片目を眇める。それはほんの僅かな時だったので、に会えて浮かれているギンは気付かなかった。 「どないしたん、五番隊の隊舎まで来るなんて珍しいやん」 廊下の屋根の一歩外は雨。春先の雨はどこかぼんやりした空気を纏い、世界を薄く包んでぼやけさせてしまう。 五番隊の庭に植えられた桃の花も艶やかな花色を雨露に濡らされてしまっている。 思わずそれに見惚れてしまったのが原因だ。ギンに見つけられてしまったのは。 普段滅多に自分の隊から外に出ないを、十三番隊の隊舎以外で見かけるのは本当に珍しいことで。 見つからない内に帰ろうと思っていたのに誤算だった、と自分にまとわりつくギンを適当にあしらいながらため息を吐き出した。 「書類届けに来ただけだよ」 「ほな今日はもう終わり?」 「まあな」 「そやったら花見にいかへん?ええやんな。よっしゃ決まりや!じゃあ後で迎えに行くからなー!」 「おい花見ってこんな雨の日にか!?って、もういないし!」 一方的に約束を取り付けられ、呆然と瞬歩でその場からいなくなったギンが今までいた場所を眺めていると、 くすくすと笑い声が聞こえた。そちらへ目をやれば藍染が袖口で口元を押さえて笑っている。 「はは、いやすまないね。君達のやり取りがあまりにも仲が良さそうだったから」 「どこがですか。まったく、藍染隊長に笑われるだなんてついてない」 隊舎の庭に植えられた桃の花が咲き乱れ、紅い花には雨が降り注いでいる。その花の様子を目に映す。 つられて視線をそちらへ投じた藍染に、はぽつりと呟いた。 「俺、あんたが嫌いだ」 その言葉を、藍染は泰然と受け止める。表情には微塵も変化は見られない。感情を一切失くしたの声にただ、ゆったりと微笑む。 「そうか。僕は君のことが嫌いではないのだけれどね」 返る返事には嫌悪を貌に刻む。本気かどうか、計り難いといった表情をする美しい青年の横顔を藍染は黒鳶に映し出す。 「嫌いだよ。だってあんたはいつかギンを連れていっちゃうだろ」 「できれば君にはギンと同じように僕の元へ来て欲しいと思うよ」 「無理だね」 「だろうね」 雨の中、会話は進む。視線を花から藍染の両の瞳へ。泣きそうに笑いながらは言った。 「情けないけど、今は両手がいっぱいいっぱいなんだ」 「そう」 「そろそろ行きます。ギンがウチの隊に迷惑かけるといけないから」 さらり、と袴を翻してはその場を後にする。藍染はその背を見送りながら先程のの表情を思い返す。 「両手がいっぱい、か。なるほど、ではその手にあるもの全てがなくなればどうだろう?」 人の良い笑みを浮かべながら、藍染は欄干にもたれかかる。その背後では雨に散らされた花びらが、色を喪い地へと。 ぽとり、ぽとりと堕ちて行った。 |